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「大きな理性」というから閉じてしまうのかな

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これは必読書だったかもしれない。

身体と魂の思想史

とりあえず、読み終わりました。

「身体」という対象に哲学や科学がどう取り組んできたかという概論で、押さえるべき概念や研究をきちんと踏みしめながら先に進んでいる。 ここを土台に身体論を固めていくのが道を踏み外さないというか、議論のための共通基盤になるかなと思います。

結局デカルトが悪者なんですけどね。 「われ思う、故に我あり」と言っちゃうから。

これは「精神は肉体に宿る」というプラトン系の考え方です。 これがキリスト教に採用され「理性 vs 身体」という人間観を形成してきた。 デカルトはそれを踏襲し「思う私=理性」が「身体=機械」を支配する図式を作り上げます。

その後の科学はこの心身二元論に準拠し、身体を「機械的な仕組み」と見なし、解剖しても問題ないと考え、医学などが発展していきます。

でもねえ、それは本当だろうか。 調べていくとボロが出てくる。

身体図式

田中先生の論点は、身体図式と身体イメージの差異にあると思いました。

身体図式は意識するのが難しく、でもなにか動作しているとき「自分がそれをしている」という主体感を生み出しているもの。 それに対し、身体イメージの方は意識的で、他人の目を気にしながら「もっと痩せてたらいいのに」とか「もっと可愛かったらいいのに」と理想の間で揺れ動くもの。 そうした違いがあります。

簡単に言えばラカンの「主体」と「自我」の違いなんですが、田中先生はラカンをまったく出さず、認知科学の文脈で説明しようとしているのが面白かったです。 具体的でわかりやすい解説になっている。

鈴木先生のプロジェクト論で見た「ラバーハンドの実験」がここでも中心的な議題になっています。 切り口は田中先生独自のものですね。 身体図式と身体イメージが、そこでは触覚的身体と視覚的身体に置き換わります。

触覚的身体は、刷毛でくすぐられたり、鉛筆でつつかれたりして、自分の手と作り物の手(ラバーハンド)を同時に刺激されると生まれる「ここ」という感覚。

言われてみれば、触覚ってどこであっても「ここ」なんですね。 「ここが痒いの」って指さすことができる。 「ここ」と定位することで、そこに「私」を位置づける。 「我あり」とはそんな触覚的感覚です。

対して視覚的身体は「そこ」なんです。 「そこ」にラバーハンドがある。 実験者が「そこ」をペン先でツンツンしている。 そして触覚的に(見えない箱の中で、実際の手をペンで突つくので)「ここ」が刺激されたように感じると「そこはここ」となって、ラバーハンド(偽物の手)に「私のもの」という所有感が生じる。

すると、そのラバーハンドが視覚的身体に組み込まれ、ハンマーで思いっきり叩かれたすると「痛い!やめてー」となるそうです、知らんけど。

これ、攻殻機動隊の「義体化」が可能になるわけです。 BMIと呼ばれる研究で、脊髄に損傷を受けて半身不随になった人が、その神経と機械とを繋ぎ合わせることで、パソコンの操作ができるようになる実験が行われたりしています。 「拡張された身体」と呼ばれるそうです。 そうした体験をすると、そこに「私」という主体感が生まれます。

なので、全然「われ思う、故に我あり」なんかじゃない。 身体が介在せずに「私」という感覚は生まれない。 メルロ=ポンティはそこあたり「われ出来る、故に我あり」と言い換えています。

問題点

現在行われている研究のサーベイなので仕方ないですが、不満が残ります。

まず「他者の身体」が出てこない。 人との触れ合いは、人間が赤ん坊として生まれたときの基礎じゃないですか。 そこに「母親の身体」がある。 視覚的な他者像を形成する以前に、触覚的な身体交流が先にある。 その話がこの本では出てきません。

調べてみると田中先生はジェームズ・ギブソンの翻訳者ですね。 アフォーダンス理論のギブソンです。 そうすると身体と環境との相互作用がメインになってしまい「他者の身体」が視点から落ちてしまうのかもしれません。

そもそも、他者との身体的な共鳴を取り扱うには、まだそのための概念が出揃ってないかもしれない。 実験に乗せるのが難しそうです。 ビデオに撮って、ノンバーバルコミュニケーションを数値化するのは行われていても、そこで交換されている情緒的な雰囲気や気分といったものは扱うことができない。

そもそも「はじめに」で田中先生は、ご自分の緘黙症を乗り越えるとき「歌」が貢献したのではないか、と書いてるじゃないですか。 「歌」というのは「他者との身体的交流」の原型です。 胎内で聞いた「母親の心臓の鼓動」であり、揺さぶられながら聞いた「子守唄」のことです。 ここに触れずに「主体感」や「所有感」を論じても、コアな「私」には届かないでしょう。

主体感も所有感も、能動態的自己です。 外界への働きかけになっている。 でも、その前に「響き合う」の中動態的自己がある。 たぶん、メルロの「触れ合う」にもそうした中動態的側面があり、それが「キアスム」と呼ばれている。

身体は他者と共鳴し融合している。 そこから「私」を切り出そうとするから、いつの間にか「私の身体」になってしまうのかもしれないなあ。

まとめ

これって、本文を書き終えてから「はじめに」を書いたら「歌、抜けてたじゃん」と著者が気づいたパターンかもなあ。 事後的に「自分の問題意識」を見つけてしまう。

よくあるよくある。


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