哲学を日常生活に応用する。 もしかしたらその道を開いたのはサルトルかもしれない。
実存主義者のカフェにて
まだ読んでいる途中です。 というかカレー沢薫先生を発見してそちらに流れてます。 やはり引きこもりの奥は深い。 現代の老荘思想なのではないかと思えてきました。 三国志の乙女ゲーが賢者を産むのだろうか。 そちらはまた機会があれば。
で、実存主義ですけど「応用哲学」という視点を持ち込むと読み解きやすいと思いました。 フッサールやハイデガーは読者を身内に限定しているというか、哲学者界隈で「俺すげーだろ?」と言ってるだけなんですが、サルトルは初めから「一般大衆」をターゲットにして「哲学を生活に組み込むこと」を考えている。 小説や演劇を通してメディアミックスしている。 そこが新しいかな。 誰もが哲学をしていいし、それは生きることに直結するものだと言う信念があります。
哲学に答えがあるわけではありません。 方法論がある。 世間的な思い込みや自分の中の先入見を一度棚上げする。 エポケーという方法です。 これを実践に結びつけることで何が起こるか思考実験をしてみる。
なので、それぞれの哲学者が出した結論より、その思考の道のりの方に価値が置かれます。 一部の専門家の特権ではありません。 誰がやってもいいし、違う結論が出てもいい。 哲学を日常に応用したときが面白い。
戦後フランスの若者の間で実存主義がファッションのように広がったのは、その間口の広さがあったのでしょう。 小難しい専門用語よりも自分の身体感覚を優先する。 古い価値観を棚上げし、もう一度あるべき社会を作り直す。 日本で「学生運動」というと竹槍をゲバ棒に持ち替えた尊皇攘夷のことですが、ヨーロッパでは実存主義が核となっていた。 「次の世界大戦を起こさない」という明確な意図がある。 「女性は主権を奪われている」という抗議の声でもある。 生活の中に哲学が浸透していった。
でもそれは哲学の大衆化でもある。 サルトルの講演会で若い女の子たちが絶叫して失神してしまうとか、ノリとしてはビートルズと変わりません。 モテたいから「バンドやろうぜ」となったのはビートルズの影響です。 なぜかギターとヴォーカルしか集まらなくてジャンケンでドラマーを決めるのもビートルズのせいです。 もうちょっとリンゴ・スターがかっこよかったらなあ。
同じようにモテたいなら哲学をする時代があった。 バカみたいな動機ですが、何事も始まりはバカみたいなものです。 バカでなければ新しいものに手は出せない。 手を出してスリーコードから始め、音が出ると楽しくなって、そのうちモテるかどうかどうでもよくなる。 「沼」はそんなふうにできています。
ところが今の哲学はそういう要素がない。 なぜ哲学はモテないのか。
ハイデガーの転回
ナチス支持者として悪名高いハイデガーですが、戦後の哲学は今もその掌の上で踊っているに過ぎません。
ハイデガーの前期思想は「投企」です。 プロジェクト。 タスク管理の「プロジェクト」のことです。 未来に向けて賭けをする。 鬼が出るか蛇が出るか。 それが本来性に目覚めた現存在のあり方です。
目標に向かって、自分の夢を叶えようと邁進する。 そうした自由な自我の姿。 サルトルのアンガージュマンも同様でしょう。 個々人に社会を変える力が備わっている。
多分これ「若者」の哲学です。 生きる意味を神や親が与えてくれた過去は終わり「そもそも生まれたことは偶然に過ぎない」と考える神なき時代に突入した。 「実存は本質に先立つ」とはそうした意味で「何のために生きるか」は自分で切り開く。
バンドを組んで東京に行って一旗あげる。 バンドという共存在を得て世界内存在として自己を意味づける。 それが実存主義なわけです。 これはモテますね。
ところが戦後ハイデガーは「転回」してしまう。 オカルトじみた神秘主義に走ります。 エックハルトの「放下」を持ち出す。 夏目漱石の「則天去私」みたいなニュアンスで線香臭い。 自我を消して自然の中に溶け込む。 もともと「現存在」が「場との相互作用で自我が生じる」という発想なので、ハイデガーの初めからある立場です。
若いうちは自由を求め目標を持ち自我を育てるのですが、人生も後半になるとその自我を消して自然に帰る動きが始まる。 若い頃は「リビドー」と叫んでいたフロイトも、癌を患ってからは死の欲動を説き始める。 年齢とともにライフテーマは移り変わる。
これは年寄りくさい。 モテません。 年齢とともに円熟味を増したとも言えるけど、若い頃の責任から逃れようとしているというか、老獪さも感じる。 年寄りはズルい。
テクノポップス
もちろんそこにはテクノロジーへの非難があります。 テクノロジーは「自然」を道具と見なし、搾り取れるだけ搾り取ろうとする。 ドナウ川をせき止めダムを作り水力発電所にしてしまう。 川の潜在力を限界まで搾り取ることで「電力」に変える。 美しきドナウ川は醜く太り、昔歌われたような景観を失ってしまいました。
自然を「道具」と見なすことは、人間も同様に道具扱いすることです。 それが「自分」にも返って自己搾取になる。 鉄棒でくるくる回ることは人間の適応に関係ありません。 でもオリンピックという舞台では賞賛される。 自分の身体を「道具」と見なし痛めつける自己搾取なのだけど、鑑賞商品として消費することがまかり通っている。 それがテクノロジーの本質だからです。
老人はテクノロジーを嫌います。 回る寿司屋のタブレット注文が使いこなせない。 スマホに溜まったポイントも失効してしまう。 まずモテません。 モテるのは鉄棒でくるくる回る選手の方です。 彼らはプロジェクトの世界を生きています。 一流のアスリートであり現代テクノロジーの集大成です。 人間の限界を見せてくれる。
後期ハイデガーは「自己」よりも「場」に関心を移します。 構造主義やポスト構造主義と親和性が高い。 世の中「自分」の思い通りには行かない。 夢破れて山河あり。 揺蕩う自然の流れが、人間の小さな自我を飲み込んでしまいます。 強者どもが夢の跡。
なので、構造主義もモテない。 日本で「哲学」が大衆化したのが80年代なので、実存主義より構造主義の時代でした。 ドゥルーズ=ガダリの本が大学生協で山積みされ、誰もが読んだふりをしていたけど、モテなかった。 逃走論ではモテませんでした。
これがバブルの敗因です。
まとめ
構造主義はフォークソングからニューミュージックに流れていったのだと思う。 あの頃同じ花を見て、美しいと言った二人の、心と心が今はもう通わない。 幻想の崩壊。 それがなぜか当時の若者の心を捉えた。
あとフォークにドラマーがいないのも大きい。 「俺は嵐を呼ぶぜ」はカッコ悪い。