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オープンダイアログは「対話」なのだろうか

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日本に根付くことはできるだろうか。

オープンダイアログ

オープンダイアログは北欧で行われている精神療法です。

統合失調症の初期に家族を含めた話し合いの場を設けると、薬を使わずに8割の人が改善する。 再発もしない。 10年ほど前にYouTubeに動画が上がり、爆発的に知名度が上がりました。 ただ日本で実践する人は少なく、実際に北欧に学びに行ったのが森川さんです (「先生」と呼ばれたくないようなので「さん付け」にします)。

もともと家族療法は別室に治療スタッフがいて、ハーフミラー越しに面接室を観察している。 そして、面接室のセラピストに「この質問をせよ」とか「こうした指示を行え」と司令を行う。 そうした構造を採用していました。

家族のダイナミックスを客観的に観察し、そのシステム的な問題を明らかにするデザインだったからです。 面接室内のセラピストはダイナミックスに巻き込まれがちで、システムを俯瞰視できない。 別室の第三者でなければシステムは扱えない、という前提だったのでしょう。

それがある日、マイクを切り忘れた。 治療方針を決める話し合いを別室のスタッフで行っているところを、そのまま放送して面接室の家族に聞かれてしまった。 大きなミスをしてしまった。

ところが、そのほうが予後が良かったのです。 治療スタッフの方でもいろんな意見が飛び交い、いろいろ悩んだ末に「対応策」を考えてくれている。 その事実が家族を勇気づけ、いっしょに問題に取り組もうという気持ちを育てました。

これが「リフレクティング」という技法に成長します。

オープンダイアログでは「それだったら、わざわざ別室にいるんじゃなくて、同じ部屋でいいじゃないか」となりました。 隠れて観察する必要はない。 表に出て、同じテーブルを囲んで自分たちの思いを伝えたほうがいい。

顔が見えているほうが互いに安心できる。 その選択を「オープン」と名乗るわけです。

神なき時代

古い家族療法だと「ブラックボックス」があります。 別室のスタッフたちが家族から見えない。 目の前に座るセラピストは、そのブラックボックスからの指示で動く「操り人形」に過ぎない。 なぜ、このような構造になっていたのか。

たぶん、これは「キリスト教」を模倣しています。 神というブラックボックスがあり、民衆は直接対話できない。 間に教会、つまり牧師や神父を挟み、彼らの仲介で神と向き合うようになっている。 西洋の心理療法は、この「教会での告解」をモデルにしています。 「さあ、神に許しを乞いましょう」と。

もともと「セラピー」は、新約聖書でイエスが病人に行った「寄り添い=テラペウオ」に由来します。 イエス・キリストはその死後、「医療神」として勢力を拡大します。 お祈りすると効能がある。 刺抜き地蔵みたいなものですね。

「セラピー」という言葉には「イエス」の姿が見え隠れする。 「ブラックボックス」があり、それと接触するためには「シャーマン」に仲介してもらう。 シャーマン自身の力で「病」が治るわけではありません。 神の恩寵、自然治癒力、科学の力、なんでもいいけど「ブラックボックス」があり、そこから治癒力がもたらされる。 そのためには専門家が必要で、そこに上下関係が生まれる。

これは「ふつうの相談」にも関係するのかな。 ポスト・モダンになって、その上下関係を解消しようとする理論や技法が出てきています。 ハーフミラーの向こう側からこちらに席を移す。 彼らは「セラピー」ではなく「アプローチ」を自称します。

対等に、オープンに。 その水平関係でこれまでの治療関係を脱構築していく。

日本で可能か

こうした水平関係を日本に持ち込むことができるだろうか。

森川さんの悩みどころはそこですね。 日本は肩書き社会で、お互いのことを「お母さん」や「お父さん」、「社長」や「専務」と役割名で呼びます。 もし面接で「お父さんはどう思いますか」と尋ねられたら、暗に「父親」というペルソナから語ることを期待されていると感じる。 意識しなくても、「肩書き」に発言権が与えられ、「自分の意見」ではないものが口から出てきます。

これだと「オープン」にはなりません。

じゃあ、苗字を呼べばいいのか、あるいは下の名を呼ぶのか。 そんな小手先の話じゃないでしょうね。 ここに「個人」がいて、その「個人」の気持ちが聞きたい。 そうした対話状況を日本語でも生み出すことはできるのだろうか。

森川さんは「可能」だと信じています。 というのも、すでに「日本式オープンダイアログ」を知っているからです。

この本には出てきませんが、彼は自殺希少地域のフィールドワークでも有名です。 日本には、統計をとると「自殺者のいない地域」があります。 その周りに自殺が多くても、その地域だけぽっかり真空になる。 そうした村落があります。

その地域の特徴は「赤い羽根募金でお金が集まらない」だったりするので、大好き。 ボランティアみたいな助け合いには出て行かない。 近所付き合いが淡白で、同調圧力が強くない。 江戸時代に幕府の支配から離れた島とか港町に多く、地域の人たちの自治意識が高い。 柄谷行人なら「イソノミア」と呼びそうな自治形態をしています。

対人関係が淡白とはいえ、困ったときは助け合います。 「病は市場に出せ」みたいな格言を持っています。 そのために、近い年齢で「朋輩組」を作ります。

朋輩組は入退会が自由で、男女に対等な発言権がある。 悩み事があれば、そこで話していいし、その話は外に漏らしてはいけない。 基本、言いっぱなし聞きっぱなしで、解決してもいいし、しなくてもいい。 悩みは「組」で共有し、一人で抱え込まない。

この朋輩組が森川さんの「オープンダイアログ」になってるんじゃないかと思います。 だから確信している。 「日本にも根付くことができる」と。 そこでまず、自分自身が対話実践しようと奮闘している。

この本は、5年にわたる奮闘記です。 まだまだ「5年」だけど、うまく行きそうだ。 手応えを感じている。 これは広がってほしいなあ。

まとめ

気になったのが「内的対話」ではなく「内的会話」と書いていることです。 自分の中にいろいろな思いが浮かんできて、あれこれ考えること。 これを「対話」ではなく「会話」と呼ぶのはなぜだろう?

オープンダイアログの治療機序が、他者の「対話」を聞くことで、自分の内なる「対話」が促進されるところにある。 これはよくわかる。 その理屈なら「内的対話」でいいと思うけど、どうも森川さんが「会話」と捉える理由は何かありそうだ。

リフレクティングが「スタッフの独り言を、たまたま横にいる当事者たちが聞いてしまう」というデザインなところが、たしかに「対話」とはちょっと違います。 そこかな。 でも「哲学対話」にもちょっと似てる。 「対話」って何だ?


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