大澤先生の論旨は「生成AIが準拠しているLLMは人間の知性と異なる仕組みである」という前提から始まっていて、そこに違和感を感じます。
いや、LLMこそ「人間の知性」じゃないでしょうか。
意味論的ネットワーク
確か認知心理学に「意味論的ネットワーク」があったと思います。 人間の言葉は辞書のように整理されていなくて、ただ単語をノードとしたネットワークを形成しているだけだという仮説です。 Prologとの相性が良かった。
ある単語が刺激されると、それと繋がる他の単語も活性化し、その活性が閾値を超えると意識に上る。 なので、ある単語の意味を訊かれると、それに連想する単語が次々と意識化され、見かけとしては「辞書的な意味」を答えることができる。 でも実際には、辞書のような形で意味は保管されていないという言語理論です。
このことはプライミング効果として検証できます。 ある単語をスクリーンに映して「これは実際にある言葉か」と判定させるテストで、その単語を表示する前に短時間「別の単語」を提示する。 この時間が短いと「何を見たか」は意識に残らない。
ところが、単語テストの反応速度には影響が出る。 関連性の高い単語をサブリミナルで提示すると、テストの反応が速くなる。 これをプライミング効果と呼びます。
もともと精神分析でユングが考えた「言語連想検査」があり、それを実験に載せたものですね。 言語連想検査は、実験者がある単語を言い、それに対し被験者が「連想する言葉」を答えるものです。
ユングの場合は「何を連想するか」ではなく「連想までどれくらい時間がかかるか」を調べ、その人の平均速度より早かったり遅かったりする単語を集め「連想を抑圧されている言葉=トラウマ」を探るために使っていました。 江戸川乱歩も、この検査をネタに小説を書いていました。 『心理試験』だったか。
そこにあるのはLLMと同じ「言葉の連想ネットワーク」です。 だから決して、この仕組み自体は「人間の知性」と異なるものではありません。
そこは大澤先生の誤解だろうと思う。
もう一つのネットワーク
だから、人間にはLLMもあるけれど、もうひとつ何かあって、そのことで記号接地ができているのではないでしょうか。 身体と関連付けるための、もう一つのネットワーク。
LLMはラカンの「無意識は言語によって構造化されている」だろうから「象徴界」と見ていい。 すると、リアルなものを分節化するもう一つは「想像界」だろうと思います。 身体イメージを用いた分節化。 それは虫や魚などの生き物全般でも観察されます。
ここあたりは丸山圭三郎がうまくラカンを翻案していると思う。 現実を身体で分節化するのを「身分け」、言葉で秩序だてるのを「言分け」と命名している。 それが想像界と象徴界に対応しています。
動物は、混沌とした外界・内界を、身体イメージで情報処理しています。 それによって環世界を形成している。 ところが人間はそこに、言葉で処理した情報も併せ持っています。 いわば複眼視で世界を捉え、多層化している。
問題は、その2つの世界がどう重なるかですね。 言葉の世界が、どう身体の世界に接地するか。 認知言語学で言われるように、抽象的な言葉も身体の動きをメタファーにしている。 「株価が下がる」と言えば身体も下がるし、「前向きに検討します」と言えば顔が前を向く。 この2つが調和しないと「頭でわかっていても身体がついてこない」になって症状化してしまう。
「ハミング」がやはりポイントだと思いました。 ラカンだと、言葉が出る前の喃語(ララング)を重視している。 手足をバタバタさせるバンキングが喃語を引き出し、二足歩行と発語に分化します。 「身体が話す」の段階があるのでしょうね。
そこが記号接地の接合点になりそう。
まとめ
あとアブダクションだけど、パースのオリジナルじゃなく、アリストテレスの「アパゴーゲー」に由来してると思う。 偶然が関与する事象については蓋然性を扱う推論としてありとか、なんとか。