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「ヤングケアラー」を定義するのは難しい

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「定義」の持つ根本的矛盾だと思う。

となりのヤングケアラー

村上先生はいつも尖った本を書く。 この「となりのヤングケアラー」もそうで、わかっているようでわかってないところを指摘するのがうまい。

この10年くらいの間に「ヤングケアラー」の知名度は上がっています。 政府も問題として捉え、支援のための法案も出されている。 いい傾向だ。

ただ、法律の常として「それは何か」の定義が立てられ、その「何」に対して打てる手立てが挙げられるわけだが、そこに罠があるんだよなあ。 見た目は「定義→手立て」の順に並んでいるんだけど、文言の成立は「手立て→定義」なのだろうと思う。

「政府としてできること」が先にあり、その支援が可能な対象が「定義」に織り込まれる。 すると「もともと困っていた子どもたち」が定義から外れてしまい「救済可能な子どもだけを救済する」という構造が出来上がる。 そんな仕組みになっています。

これは別に政府が悪いわけじゃない。 「法」の持つ根本的な問題だと思う。 村上先生は「定義」を曖昧にすることで「ヤングケアラー」を捉えることを提案します。

子どもが直接介護に関わっていなくても、両親に何らかの障害があったり、外国出身で日本語の使用に不都合があったりする場合でも、子どもが交友関係や勉学に支障をきたすことはあります。 母親が聾唖者で口話が難しい場合、子どもが病院や役所に付き添って「通訳」を担うことになる。 そうしたことが「当たり前」に行われています。

考えるとおかしいですよね。 公的機関が「通訳」を常駐させればいいだけなのに、その子の「時間」を奪っている。 しかも、間に立たされた子どもは、大人のやり取りをスムーズにするために「自分」を消すことになる。 自分として思うことがあっても、まず会話が進むように「自分」を棚上げして通訳する。 本人の気持ちとしては、自らの存在が空気のように感じられるでしょう。 透明になって、大人たちに気づいてもらえない。

それを、どこかに出かけるたびに味わう。 外食するときも、遊びに行った旅先でも。

虐待なのか

村上先生の指摘で「なるほどなあ」と思ったのが児童虐待絡みでのケースですね。 行政が「ネグレクト」と見るのと「ヤングケアラー」とでは対処が変わってきます。

ネグレクトと見れば親を責める。 動こうとしない親を悪者扱いをして子どもを保護し、家族から隔離しようとする。 でも、それでうまく行くのか。 まあ、行かないでしょう。 一時的な気休めに過ぎませんから。

ヤングケアラーと見ればそこに「ケアが必要な家族」がいます。 親がうつ病で寝たきりになっている。 時間もなく働き疲労困憊している。 介護が必要な老親や障害児を抱えている。 その皺寄せが子どもに来ているのだと見立てれば、必要なのは家族への継続的な支援です。 一時保護ではありません。

ただ、実際の行政がどう動いているのかわかりませんね。 「子どものための相談窓口を設ける」みたいな対応をしているので「子どもに何かしないと」と思っているようで、 家族を見ていない。 村上先生も「日本の申請主義」と表現してるけど、子どもが申請をしないと行政は動かない。 児童虐待も誰かが申請しないと児童相談所は動けません。

ここが難しい。 行政が「あなたにはケアが必要です」と家族に介入していいのかどうか。 それを許すと公的権力が家の中に踏み込んでくることになる。 やっと注目されてきた「宗教2世」の問題も「ヤングケアラー」なのですよね。 親の宗教活動に付き合わされ、子どもが自分の時間を持てない。 「魂を清める」という名目で折檻を受ける。

介入しないと出口がない。 やっぱり行政が介入すべきかなあ。 でも「行政に都合が悪いケース」を対象にし出すのも目に見えるしなあ。

どちらに転んでも地獄だ。 こういうのは問いの立て方を間違えているからだろう。 さて、どう問いを立て直せばいいのやら。

居場所を作る

村上先生の提案は「子どもの居場所を作ること」です。 ご自分が西成区で実践をしているので、その様子が書かれていて、可能な支援のあり方を垣間見ることができます。

それはそれで参考になるのだけど、ここにも「手立て→定義」の問題を感じる。 「居場所を作る」が解決策になるのは「居場所のない子」を対象にするときですね。 ヤングケアラーをそう定義しています。

その定義で何が排除されるか。 そこを考えないといけないだろうなあ。 一見「居場所を作る」はいいことに見えるけど、それは「それが合っている子」に限定しますよね。

村上先生も指摘しているけど「親の面倒を見ている子」というのは昔からいました。 「親が忙しくてネグレクトされていた子」もいたし。 それでもなんとかなった。

なんとかなったのは「秘密基地」があったからです。 これも村上先生は指摘してますね。 「森」があった。 そこに行けば一人でぼーっとすることもできたし、だれか友だちが来て、たわいもない話をすることもできた。 そうした空間が確保されていた。

でもそれは「大人が管理する居場所」ではありません。 「大人の目が届かないところ」です。 今だと「裏SNS」になっているところ。 あそっか、今は「SNS」がその役割を担っているのか。 だから「大人が用意した居場所」では機能しません。

あと「居場所まで行けない子」もいます。 そもそも「ヤングケアラー」は家から離れることができない。 離れたら、その間に家族に何か起こるんじゃないか、親が死んでしまうんじゃないかと心配している。 彼らは「ケア」をしているのだから「暇」がない。 勉強する暇も遊ぶ暇もないから当然「居場所に行く暇」もありません。

そう考えると「居場所を作る」は解決策ではないなあ。 もちろん「居場所」が役に立つ子もいるだろうから、その支援を否定するわけではないけど、それだけでは「定義」から外れる子もいる。 セーフティネットが多重に必要になります。

そもそも「家族」を支援すべきと考えるなら、その「家族」の定義が先じゃないだろうか。 「子ども」に焦点を当てるんじゃなくて。 でも同じ「穴」に落ちそうでもある。

まとめ

「支援」を考えるのではなく「定義」をするのでもなく。 まず「問題」を集め、そこに共通する構造を見つける研究が必要かもしれない。 生成AIとかで分析できないかな。

いや、モードレスで考えるところか。


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