ああ、そうか。
普通という異常
てんかん専門医の兼本先生が「定型発達」の病理性についていろいろ揶揄する本。
発達障害の人はそんなに増えてはいないけど「定型発達」の人たちが増えたことで非定型の人たちが生きづらくなったのではないか。 基本はそういう読み筋で、この「定型」の特性と問題点を洗い直してみようという話です。
実際、昭和から生きている人間にすると「ああ、わかる」という内容で、世の中が世知辛くなっている。 「普通」の意味が変わってきてるんだろうなあ。 そこに溶け込めない人を「障害」として排除しつつ「合理的配慮の対象」としている。 「配慮してるんだからこちらに合わせなさい」というメッセージが蔓延しています。
「配慮」って、そちらが合わせるんじゃないの?
ただ兼本先生の論の進め方はとても変なんで用心してください。 出てくるアイデアは面白んですけどね。 哲学や脳科学の知見を紹介するけれど、一貫性がなくて、本論にも組み込めていない。 「京都や英国ではいじわるコミュニケーションが発達している」とか、そりゃあ、先生自身がADHDで、大学や留学先にうまく馴染めなかったからでしょう。 個人の恨みを「京都や英国」に向けられても困ります。
あと「健常発達」を「定型発達」の意味に使っているので、論が破綻しています。 「もともと定型発達が主流派だった」と「平成になって定型発達が増えてきた」が混在していて、しかも無頓着に立ち位置が変わる。 「健常発達が主流派だったところに定型発達が増えてきた」として、健常発達の病理と定型発達の病理を分けるべきじゃないでしょうか。 話が複雑になるので新書向きじゃないのはわかりますが。
シェマL
哲学っぽくするためか、ラカンのシェマLを持ち出してますが、扱い方が間違っている。 うすうす気づいてるから「なんちゃってシェマL」と呼んで誤魔化してるけど、それくらいなら「私が考えたシェマ」にしてラカンとか出さなきゃいいのに。
シェマLは「世間的コミュニケーション」を「a↔︎a'」の軸に置いています。 ハイデガーの「das Man」、井戸端会議のような空疎なおしゃべりのレベルです。 ところが兼本先生はこちらを「ホンネ」、対となる「A→S」を「タテマエ」として話を進めている。
でも大文字のAって「父の名」じゃないですか。 これは「神」のことでもあるし、ハイデガーの「死」のことでもある。 「A→S」は「脱世間的なメッセージ」です。 日常生活のまどろみを打ち破って「お前はどう生きたいのか」と問いかけてくる。 母子密着を断ち切る父性的な去勢です。 これを「タテマエ」とされたら話が続きません。
とまあ、そんなふうに文句を垂れていたら、ふと「この図でいいんじゃないか」と思えてきました。 日本では、とくに。 日本社会に「大文字の他者」はありません。 母子ベッタリの母性社会です。 「ありのままの私を愛して」の承認欲求で動いています。
ただ一時期、日本にも「大文字の他者」がいた。 戦後の一時期だけ「本当の自分」を問われた期間があった。 一部の若者だけの体験かもしれません。 その「他者」は初めの頃は「マルクス主義」と呼ばれ、やがてサルトルの「実存主義」になり、最後は「ポスト・モダニズム」となって消えていきました。 世間の外部から直接「個人」に対し「お前は何を望むのか」と問いかけてきた。
この「本当の自分」は「今の自分」ではありません。 「今の自分」は疎外状態にあり「本当の自分」を忘れている。 「本当の自分」を取り戻すには、一度「普通」の価値観から離れ、自分自身の内面を見つめ直す努力が必要です。 「勉強」が要るわけです。
それに対し、平成以降の「本当の自分」は「ありのままの私」にすり変わっていきます。 もう「エスプリ」や「iichiko」を読んだりしない。 「ありのまま」とはなんの努力もしない状態を指します。 「勉強」したら損です。 だって、「ありのまま」なんだから。
平成の「努力」からは「内面」が消え、「自分磨き」と言えばお金をかけて整形手術受けること。 脱毛したり歯科矯正したりで忙しく、そうした「努力」に疲れてきた。 「ありのまま」を認めてほしいけど、「ありのまま」を晒け出すには自信がない。
「私」が「人の目からの評価」で成り立っている。 シェマLの「a↔︎a'」という鏡の関係がベースにある。 そう、兼本先生の描くシェマの方が「平成・令和的」です。
まとめ
たぶんこのシェマは世界的にも該当するんだろうなあ。 日本化してきている。
フーコーが管理社会の最終段階とした状態。 管理者はもういないのにルールだけが残っていて、相互監視やナッジによって規律に従った生活を送っている。
それは「健常」ではなく「定型」だろう。 「スマート社会」もこれか。