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「苦しくて切ないすべての人たちへ」は切ない

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般若心経に「度一切苦厄」とある。 これを若い頃は「すべての苦しみを乗り越える」と読んでいた。 般若(仏の知恵)にたどり着くとそういう効能があるんだな、と。

でも歳を取るに従い「度」は「渡る」のことで「苦しみの中を泳いで渡る」と言っているのか、と気づいた。 苦しみの上を飛んでいくのではなく、やっぱり苦しみにはどっぷり浸かっている。 効能というよりは「それでも生きていくしかない」という覚悟なのだろう。 仏道は苦海で溺れないためのライフハックに過ぎない。

で今回、南老師の本を読んでさらに違う読みがあることに気づいた。 「一切」は「すべて」ではあるけれど「ひとえに切なく」と読んでもいい。 切ないんだよな、これは。

苦しくて切ないすべての人たちへ

恐山の院主である南和尚のエッセイを集めた本。 タイトルは編集さんが選んだもので「このタイトルはちょっと」とごねたけど「このフレーズ、南さん、書いてますよ」と言われて決まったらしい。 可哀想に。 心優しいお坊さんの説教集みたいじゃないか。

中身は哲学エッセイです。 お布施も念仏も求めません。 この人、基本は小難しいです。 ポスト構造主義の考え方を縦横無尽に使ってますが、それが平易な言葉で書かれている。 しかもテーマは常に身近で生活に密着している。 どの話もすんなり心に入ってきて「生きるって切ないなあ」とじんわりくる。

「見える」

永平寺で修行していた頃の「やらかし話」が面白かった。 エッセイならではですね。

何かの打上げの二次会でホステスさんのいるところに連れていかれ「お坊さん?!すごーい!修行してるの?どんなことできるの?」と持ち上げられた末、調子に乗って「見えます。そこにいます」と厳かな雰囲気を出してみたら「キャーキャー」言われ「私には堕した子どもがいるの」の泣き出す娘もいたりで出禁になる。 酷いことしています。

それで猛省するのがいいですね。 そうですよ、嘘ついちゃいけません。 なぜお釈迦さんは神通力の話を禁じたのか。 それは「あるのか、ないのか」を本人以外の誰も確定できない。 そうした性格の話だからです。 「現実」は他者と共有しながら積み上げるものなので、その共有ができないことを言葉にすることを仏教では禁じられている。

もちろん、その原則を守ってない「仏教」はそこらじゅうにありますが、そこは「自分」とは関係ありません。 空を飛ぼうが水面を歩こうが、それは「自分とは何か」を明らかにすることとは関係ない。 空を飛ぶトリも、水面を歩くアメンボも、仏道とは関係ありません。 一回りまわって彼らのあり方が「仏道」ではあるけど「神通力」はポイントではない。

それは「死後」や「前世」も同じことです。 あるか無いかは「この私」にわかりようがない。 ところが人々は「死後」や「前世」を語りたがる。 理屈で言えば「前世」が人間だった確率よりも、アメーバーやプランクトンだった可能性の方が高いのに、あまりそんな「前世」を語る人はいない。 牛丼ばかり食べていたら、自分の食べた分だけ「来世」は「牛」になって食べられる番だろうけど、なぜか人間の姿と信じている。

それは「この生」の根拠がほしいから。 自分の人生は何のためにあるのだろうか。 その意味づけに「死後」や「前世」が持ち出される。 しかもビジネスとして「終活」とかで消費される。 死んだあとのことを考えるのは「今」を見ないため。 「この生」に根拠がないことから目を逸らすため。 でも目を逸らしていては「生きる」と呼べない。

その話、「あの世」で儲けてる仏教がしてもいいのやら。

イタコさん

恐山のなのでイタコさんの話があるのもいい。 イタコさんは昔からいたわけではなく、昭和30年代から集まってきたそうです。 交通網が発達してからじゃないと、一般の人たちも恐山まで出掛けることはできないし、結構最近のこと。

やってくるお客さんの話で、父親の霊を呼び出してもらおうとしたおじさんのが好きだなあ。 父親の女癖が悪く、なかなか家に帰ってこない。 母親が苦労しながら自分を育ててくれた。 思春期のときはそんな父に腹を立て、何度も衝突したけれど改心することはなく、結局よその女の家で死んでしまう。

あれから自分も家庭を築き、子どもも独立していったが、どうにも父親が許せない。 話に聞くと、亡くなった人間の魂を呼び寄せる霊媒師が恐山にいるらしい。 父親の霊を下してもらい、この思いをぶつけてやりたい。

で、長い行列を待ち、自分の番がやってきたとき「親父と話がしたい」と依頼する。 イタコさんは何やら呪文を唱え、しばらく目を閉じながら身体を揺らし、それからカッと目を見開く。 さあ、来たか。 と思ったらイタコさんが「あんたの親父さん、あの世におらんかった」。 ああ、あいつは死んでからもフラフラしてるのか。 そう思ったら、何やら拍子抜けして、それから山を降りていると涙が湧いてきて止まらなくなった。 許してやってもいいかと思ったら、肩から荷が降りた気分です。

そういう話をお寺にいた南和尚に語っています。

恐山ってすごいところだなあ。 このおじさんに何を返してもウソになりますね。 ずっと父親に「許せない思い」を抱いていた。 もういいんじゃないか、許してもいいんじゃないかと思うこともあったけど、そう考える自分自身も許せない。 母を苦しめたあの男を許したら自分は自分でなくなる。

そのギリギリの思いで生きてきた人がちゃんと救われている。 イタコさんの「あの世におらんかった」はアドリブなんだろうか。 何もかも見えていて、どう答えるのがこの人のためになるかわかっていたみたいで、これが「霊媒師」なんだろうなあ。

南和尚もただ話を聞いているだけ。 余計なことを言わないのも練れていていい。

こうした話は恐山に置いて、無事に帰ってもらうことです。 日常に戻ったときは忘れてしまうに限る。 いい仕事をしています。

まとめ

本当は「本」に書いてもいけないけど、もう時効なのかな。

三車火宅の喩え

ラーメン二郎で食べるとはこういうことなのか。 覚悟が決まってるなあ。


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