一気に読んじゃいました。
哲学史入門3
3巻目は現代哲学。 現代と言っても20世紀の哲学状況を概観する流れです。 そのため19世紀の「生の哲学」やプラグマティズムは入っていません。 2巻目がカントやヘーゲルだったので、ちょっと飛んだ感じがします。
内容は、あれですね、面白い。 人選がいいのでしょう。 インタビューを読みながら「この人も読みたいな。こちらも良さそう」と興味が掻き立てられる。
とくにベンヤミンが気になったかな。 「断片で書く」や「コンステレーションを読む」などマッピングのヒントになりそうなメタファーが使われています。 おや、そこでどんな考察がされてるのだろう。 これぞ入門書って感じ。 ここから入って、どうぞ奥へ奥へ。 そんなお誘いの言葉が散りばめられています。
残念なのは登場人物が多すぎることかな。 20世紀はネームドの宝庫。 紹介しないといけない哲学者が多いため、1人ずつに紙面を割けない。 1,2巻目の「一般的に○○と言われてますが、あれは間違いです」みたいなどんでん返しがない。
「ポストモダンってリオタールしか言ってない」くらいかなあ。 まだ「一般的に」みたいな「常識」が出来上がっていないのでしょう。 21世紀になって「20世紀とは何か」を消化し始めたところ。 やっと「過去」になったというか。 そんな印象がしました。
現象学のネコ
20世紀哲学に「神」は出てきません。 2つの意味で出てこない。
一つは「資本主義」が「神の座」に君臨した。 それまで「神」が占めていた位置に「資本主義経済」がやってきます。 生活の基盤として「宗教」ではなく「経済」が関心事になる。 フランクフルト学派がそれに取り組みました。
もう1つは世界観が「一人称視点」になりました。 FPSゲームのように世界の把握が一人称になった。 現象学がその端緒かな。
「私」と「あなた」が対話している。 そうした場面を考えるとき、映画や漫画のように「2人の人間が向かい合って話をしているシーン」を思い浮かべるじゃないですか。
でもそれは「神の視点」です。 現実には、そうした第三者視点は存在しません。 デカルトやカントにはあるんですよ、そうした客観的視点が。 そうした「客観」を担保してくれる存在が、その頃の「神」でした。
20世紀の哲学は、その「神の視点」を疑うことから始まりました。 まず一人称から始める。 すると、その視界には「私」はいないことになる。 「私」が見ているものは「あなた」。 「あなた」という他者から世界は始まっている。 「私」は「あなたの見ている/話しかけている他者」として、認識的に構成される。
家でネコを飼っていると思いますが、まだミルクしか飲めない子猫のときから人間と暮らしを共にするのはどういう体験でしょう。 ネコにとっての「あなた」は人間である。 ネコは自分の姿を見ることはできません。 そして「あなた」は「私」に話しかけてくる。
たぶん、ネコは自分も「人間の姿」をしていると感じているのじゃないでしょうか。 自分は「あなた」の仲間なのだろう。 呼びかけに返事してみる。 ああ、そうだ。 こちらの声に「あなた」も微笑んでくれた。
「私」と「あなた」は心が通じる。 互いに気持ちがわかる。 ということは「私」も「あなた」と同じ。 「私」も「人間」に違いない。
現象学を読むと、いつも気になります。 ほんと、どう思ってるのかなあ。
腰割り
現象学が「身分け」だとすると、分析哲学は「言分け」ですね。 丸山圭三郎を使うと。
混沌とした現実を人間は直接認識できないので、身体を使って分節化するか、言葉を使って分節化するか。 その二択になるし、その二択をちゃんぽんにしながら現実把握をしている。 そういう視点です。 ここをどう扱うか。
相撲で「腰を割る」というと股関節を広げることを言います。 いわゆる「ウェスト」ではありません。 古武道とかでよく出てきますね。 「腰を曲げる」というのも股関節を支点にして前屈することです。 ここから曲げると身体への負担も少なく、身体を前に倒すことができます。
ところが「腰回り」としてウェストのサイズを測るようになると、腰とウェストの同一視が起こり、「腰を曲げる」を「ウェストから曲げること」と勘違いするようになります。 学校とかのラジオ体操でそんな指導をする。 それが習慣化すると、中年になってから腰が痛い。 曲がらないところから曲げて生活しているので負担が蓄積し、取り返しのつかない状態になります。
つまり、言葉が身体を分節化している。 言葉に合わせて身体運用する。 言葉で身体が再組織化されるので「あなたの意見は飲めません」という思いが「コップから水が飲めない」という症状で表れたりする。 それが精神分析の発想になる。
反対に、身体が言葉を分節化する側面もあります。 認知言語学の接地問題ですね。
「株価が下がる」という表現は、物の上げ下げという身体感覚を転用しています。 赤ん坊のときガラガラを上にしたり下にした体験がなければ「株価が下がる」を表現として使うことはできない。 ほかの人にも意味が通じるのは、似たような体験を誰もがしているからでしょう。 そんなふうに身体が言葉の基礎になっている。
というわけで「身分け/言分け」と言っても相互関係があります。 個々に独立した現象ではなく、むしろ相互依存で構成されている。 複雑ですよね。
この複雑さを扱うのが「脱構築」だろうと思いました。 「脱構築」を「換骨奪胎」で説明してる宮崎先生、わかりやすかった。
まとめ
この20世紀哲学は「インターネット以前」です。 そこに気づいて驚いてしまいました。
いま彼らが生きていたなら、どういうふうに分析しただろう。 「世界内存在」と「ネット内存在」はどう違ってくるのか。 LINEで日常会話する家族はエクリチュール中心になるのか否か。 身体性の扱いも変わってきますね。