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先日、知人から「性格って変えることできないですよね?」と尋ねられた。
そのときは「性格って習慣の束みたいなものだから、その習慣を変えていけるかだろうけど、難しいでしょうね」と答えたら「やっぱり変えられないですね」と言われ、「いや、変えにくくはあるけど、変えられないではないような」みたいな話になり、それからしばらく何か腑に落ちない思いをしていました。
散歩中に
それが今日散歩中に、ふと閃めくものがあった。
別にずっと考えていたわけじゃないけど、急に「性格の話じゃなかったんじゃないか」と気がついた。 「その話をすることで何を話そうとしていたのだろう?」ですね、フロイトの言う。 なぜあのとき、そんな話題をこちらに振ってきたのか。
たぶん、何かに悩んでいたわけです。 そういえば、その知人は職場で「その性格、変えたほうがいいよ」と言われていた。 対人的なトラブルがあったのでしょう。 上司から注意された。 そのことで「魚の骨」が喉に引っかかったような感じになって、それが「性格は変えることができるか」の問いになっていた。
その仮説を立てると、そのときの議論の噛み合わなさがなんとなく辻褄が合います。 自分でも「この性格でなければいいのに」と思ったのでしょう。 変えたいと思った。
でも、これまで「その性格」で生きてきたわけです。 そう簡単に変わるものでもない。 また「性格の変わった自分」をイメージしてみても、それは自分らしくないし、どこか無理をしている。 長続きしそうにない。
そうした葛藤があってモヤモヤしていた。 そのモヤモヤを聞く相手として、たまたま僕が選ばれた。 そんな感じじゃないかと思います。 だから、聞かされた方としてもモヤモヤが残る。 モヤモヤが感染する。
そのとき対話するとしたら「モヤモヤしますよねえ」だったんだな、といま思います。 性格について話し合うんじゃなく「モヤモヤ」が主題だった。 その人が職場で、どう振る舞うと対人関係を修復できるかが焦点だった。
うーん、気づくまでに時間がかかりました。
箱の外に出る
なぜそのときに「モヤモヤが主題」と気づかなかったんだろう。 どうすれば「この話で、この人は何を伝えようとしているのか」と発想を変えることができるだろう。 それが気になります。
メタ認知ですね。 「状況」という箱の外に出る。
関与観察はフィールドワークの要であり、てっきり自分の身についていると思っていました。 「状況」の中にいながら「状況」を見渡している。 そういう場面は何度でもあった。 ちょっと幽体離脱めいて、変な気分でもあるけど、力が抜けて心地いい。 それこそ習慣化されて自分の「性格」になっていると思っていた。
でもそれは「仕事モード」であって「日常モード」ではないからでしょう。 「日常」でも幽体離脱していたら、魂が抜けた顔をしてしまいます。 ただでさえ、間抜けな顔なのに。 相手が困るわ。
まあ、自分も困るかな。 「日常」は自分の生きているフィールドであり「関与」がメインになってくる。 能動的に関わらないと困ったことが起きます。
でもやっぱり「観察」もどこかに置かないと、今回のようなタイミングの悪い事態になる。 どこかにトリガーを設置すればいいかな。
「おや、これはそれじゃないようだ」と違和感が浮かんできたら「観察」にシフトすることかな。 そうそう「違和感」だろうなあ。 そのときも「あれ? 性格の話じゃないのか」と思ってたし。 違和感を抱いたのに、つい無視してしまった。
そこがポイントだったと、いまなら思います。
まとめ
ブログに書くことでもないけど、書いてみて整理できた感じがする。
違和感をトリガーにする。 まずはそこから始めてみよう。
GQuuuuuuX
すんません。 「u」が6つあるのはなんででしょう?